2007/06/27

映文連50年誌「上野耕三」紹介文

 以下は2004年1月発行の映像文化製作者連盟50年誌第2部「映画人群像・創業者の心意気」に私が書かせてもらった上野耕三の紹介文です。当時会社で上野さんを知っているのは私だけでしたから、私の知っている上野耕三晩年の業界における位置づけを意識して、「実用映画」の提唱を中心に書きました。

上野耕三 1908(明41)ー1981(昭56)
株式会社記録映画社創業者、元教育映画製作者連盟理事

ー<実用映画の開拓>を提唱
 戦前、映画評論家から記録映画監督になって「和具の海女」「村の学校」の脚本監督をした上野は、戦後1950年に記録映画社を設立。53年の教育映画製作者連盟の結成に参加した。
 代表作は「刈干し切り唄」59、「首都東京」63、「姫路城」64、「伝統工芸ーわざと人ー」65、「中国の陶磁」70、「富士山ーその植物社会ー」74、「観察して描く」75など。
 60〜70年代、上野は記録映画作品を作る一方で<実用映画の開拓>を提唱した。映画は全て芸術の親戚=作品と考えられているため無駄な努力と金がかけられ、そのために利用が阻害されている。映画を「動く写真」として、言葉や文字や図などと同じように産業や教育の場でもっと気軽に利用しようと、作品的表現や構成の常識を排した<動くカタログ><動くマニュアル><動くテキスト>などを製作、スポンサーや評論家を集めて発表したりした。実用映画は当時普及し始めた8ミリフィルムやポータブル映写機を活用して制作費を必要最小限にすることをウリにしたため、同業者からダンピングだといわれたりしたこともあったが、上野も社員もおおまじめに運動として取り組んだ。やがてビデオが登場し、パソコンが普及してマルチメディア時代となり、映像を実用に使うことは当たり前となっている。
(写真は告別式にも使われた晩年の上野耕三)